命も若さも、楽しい時間も、終わりがあるから価値が出て、ありがたみが増すって思わへん?
小学生のけんけんは、本気で永遠の命が欲しかったし(ドラキュラの本よく読んでた。笑)、今も若さはなくなってほしくないと思ってるけど(さらっと書いてるけど、それはもうもう切実よ。笑)。
けんけんは、自分の病気では、本気で「自分の命が終わる」とは思えへんかってん(大病ちゃうかったからかな)。
でも、子どもを産んで、新生児の赤ちゃんを毎日見ながら、「あぁ、この子より私は先に死ぬんやなぁ~(そうであってほしいと強く願う)」って思っててん。
そしたら、「私はこの子より先に死ぬ」→「私は死ぬ」。…「私は死ぬ!!!」って一気に自分の死が腑に落ちてん。
ホンマの理解って感覚やねんな。
今まで、あばあちゃんおじいちゃんの死、親戚の早すぎる死、と死に触れてはきたけど。
その度に、頭ではなんとなく理解が進んでんけど、まだまだ実感としての死は遠い先にあってん。
不思議やんな。誰かの「死」じゃなくて、生命力溢れる、産まれたての命(「生」)を目の前にして、自分の死を自分の人生に招き入れることになるなんて。
でもさ、自分の死が自分の人生の一部になってから、一日中ずーっと育児時間が続いて、「ホンマは1人でこんなことしたいー!!」ってときでさえも、限りある愛おしい時間やなって思えるようになってん。
我が子の命と私の命が並走する、自分の人生において限られた僅かな時間って捉えられるようになってん。
そのおかげで、産後鬱とか、子育てのイライラとかならずに済んだ。
有限さん、ありがとう。
昨日もさ、10キロの子ども背負って、10キロの米俵右手に下げて(安くて、予定外の衝動買い)、左手に子どものグッズ一式と買い物した魚と野菜下げてて(すごい絵ずらやな笑)。
それでもどこも痛くない私の若い体。
今だけやんな。ほんまありがとう。
食べ放題行ったら、リミット外してめちゃくちゃ食べられる(夫より食べる)私の胃腸さん。
これも今だけやんな。ありがとう。
あなたが頑張ってくれる(消化)おかげで、私は楽しい幸せな時間を過ごせます。
でも、40歳になったので、ほどほどにしようとは思います(笑)。
例えがしょうもないと思った?
けんけんも文字にして何か恥ずかしくなったわ笑。
でも、このしょうもなさ、なんでもなさにめちゃめちゃ有限が溢れてるやんな。
美味しく食べ物を食べられることができる歯、綺麗な景色を見られる目。
今日も生きているということ。
全て、「有限である」ということによって、有難さによって、輝くよな。
有限から全てが輝く。その有限を体験できる地球。
けんけんは、地球に産まれた意味って、有限を体験しに来たってことやなって思うねん。
やから、無限の方がいいけど、有限によって体験できる切なさや悲しみも、体験したくてしてるんかなって思うねん。
有限による儚さも、切ない感情も、何か美しいよな。
あなたは、「これ有限やったわ!」って気が付いたことある?
「有限さんありがとう」って言葉が広まりますように(笑)。


コメント